原一男監督と浦山桐郎監督 | ケセラセラ通信日記

原一男監督と浦山桐郎監督

おおさかシネマフェスティバル実行委員会・大阪市・大阪都市協会主催の『映画連続講座』に出席。今回は、原一男監督が講師で、講演のテーマは「ドキュメンタリーとフィクション」。大きすぎるテーマゆえか、お話はもっぱら原監督が98年に撮られたテレビドキュメンタリー『映画監督浦山桐郎の肖像』についてとなる。これはテレビドキュメンタリーとしては異例の長尺で、たしか2時間ぐらいあったと思う。その製作には3年もかけたとか。
『キューポラのある街』(62年)での吉永小百合、『非行少女』(63年)の和泉雅子、『私が棄てた女』(69年)の小林トシ江と浦山監督とのエピソードなど、女優と監督の関係がハンパじゃなく凄い。田中絹代と溝口健二の関係を思い出したりした。だが、そんな「スパルタ式」の演出術はやがて受け入れられなくなり、晩年の浦山監督は不遇だったという。酒を飲むと、からむ、泣くという監督のキャラクターも影響していたのかもしれない。50代半ばで亡くなったこともあり、「最後の無頼派」と呼ばれた浦山桐郎監督の人生は、最後まで映画に情熱を傾けていただけに、なんだか哀しい。
原監督と浦山監督の接触は、原監督が『太陽の子 てだのふあ』(80年)の助監督を務めた程度だったらしいが、「僕は浦山さんが好きでねえ」と原監督はよくおっしゃる。作風も異なるし、性格も違うように思うのだが、なぜ〈好き〉なのかは訊きそびれた。

講演も無事終わり、原監督を囲んでの飲み会となる。私も同講座の裏方の一人なので、末席をけがさせていただく。〈役得〉である。その席上、原監督が「10日ほど前にね、奥崎謙三さん(原監督のドキュメンタリー作品『ゆきゆきて、神軍』の主人公)が亡くなったらしいんだよ」と、衝撃発言。身寄りがなく、お骨の引き取り手もないという状況らしいが、亡くなったことは間違いないようだ。原監督の承諾を得て、その場の一人が知り合いの新聞記者に電話をかける。しばらくして、記者から原監督にコメントを求める電話がかかってくる。さすがは新聞記者だ。数十分の間に、どこかで「ウラ」を取ったらしい。かくして、翌日から「昭和天皇にパチンコ玉を撃った男・奥崎謙三死去」のニュースが、マスコミを賑わすこととなった。いわゆるニュースソースの側に自分が立ったのは初めての経験で、少し興奮した。
しかし原監督は淡々としたもので、「どこかで酔いをさまして帰るわ」と、車の助手席に乗り込まれた。今夜のうちに東京へ、車を駆って帰るのだという。いつもながら、「ご苦労様です!」。