『ミリオンダラー・ベイビー』ふたたび | ケセラセラ通信日記

『ミリオンダラー・ベイビー』ふたたび

梅田ピカデリーで『ミリオンダラー・ベイビー』を見る。2回目なので、ラスト40分の苛酷な運命は分かっており、それゆえ余計に、それまでの何気ない描写に涙が止まらない。
たとえば、ボクシングの試合で鼻の骨を折ったマギー(ヒラリー・スワンク)と、フランキー(クリント・イーストウッド)と、スクラップ(モーガン・フリーマン)が病院の待合室にいるシーン。ガソリンスタンドで、マギーが見知らぬ少女(イーストウッドの実の娘なのだ)と微笑みを交わすシーン。赤いピックアップ・トラック(だったと思う)の中で、マギーが「また私を見捨てる?」と訊き、フランキーが「ネバー(決して)」と答えるシーン。それらは単に、そこに「優しさ」があるから心にしみるのではない。登場人物のだれもが、「負」の部分を抱えつつ優しくあろうとしているから胸を打つのだ。
特にフランキーのたたずまいは、尋常ではない。彼はいったい、封も切らずに手紙を送り返してくる娘に何をしたのか。それはついに語られないが、打ちのめされそうになる「そのこと」に耐えつつ、しわがれ声で必要最小限のことだけを喋り、人知れず神に祈り、必死でまっとうに生きようとしているフランキーの姿は、語彙が少なくて申し訳ないが「カッコいい」と言うしかないのだ。ミーハーな私は、映画の中でフランキーが着けていた腕時計が気になって仕方ない。最新号の「LEON」が時計特集だったので買ってみたが、載っていない。そうなると、ますます欲しくなる。誰か知りませんかね、あの時計。

最初に見たとき、病室でフランキーがマギーにするある「行為」を、スクラップが物陰から見ているシーンについて、あれは本当に見ていたのか、心の眼で観ていたというべきなのか、一緒に映画を見ていた友人たちと議論になった。最初私は「そこに居た」派だったが、2回目を見た今は「心の眼」派になった。3回目はどうなるだろうか。
キリスト者ではない私は、なぜ神父があんなに俗物として描かれているのかも分からないのだが、この作品が小気味よいボクシング映画を超えて、人間存在の切実なアポリアに迫ろうとしていることは分かる。だからこそ、何度でも見てみたいのだ。アカデミー賞にもいろいろ問題はありそうだが、今回ばかりは、『アビエイター』でなくこちらに軍配を上げたのは正解だったと思う。